2011紅白:素直になれよ編

紅白歌合戦の「ニッポンの嵐」を見た。ピアノ椅子に座って膝で手をふき、弾き始めてから椅子に座り直す櫻井を見ていたら、ピアノの発表会の緊張がよみがえってきた。
見ているこっちは緊張したが、櫻井からは緊張している様子がまったく感じられなかった。きっとこれまでに、もっと恐ろしくて失敗が許されないピンチをいくつも乗り越えてきたからだろう。発表会で人生の危機を感じる子どもとは、経験値が違う。怒ってるみたいな真剣な顔が頼もしく見えた。
そして順番に語り出す4人。どうして彼らの学芸会に、歌番組の視聴者が付き合わなければならないのか。一人ずつ歌い出したメロディーは、「一応歌えるんですよ」と一所懸命に主張しているみたいだ。そんな意地悪な見方をしていたのに、

めぐり会いたい人がそこにいる
やさしさ広げて 待っている

 (;_;) うるっ
あっさり陥落した。堪えかねる。私はこの歌を歌っている嵐が好きだ。この人たちが歌っているから、この歌詞を素直に受け止められる。感動していたら、いつの間にか後ろに人が山ほどいて、笑った。
「ニッポンの嵐」なんて、いちいち国家を背負わされ、さらに相葉が「じえいたいのみなさんが」と発言し、その響きにちょっとした恐怖を覚える。国防とアイドルのギャップ。いざ戦時になったら、嵐は戦争を称揚するキャラクターとして使われるんだろう。「にゃー」のときにも感じたことだが、アイドルにそこまで背負わせていいのか。
しかし考えてみれば、かつてモーニング娘。自衛官募集のポスターのキャラクターに採用されたこともある。アイドルは、一部の人にとって宗教的なほどに人気のあるキャラクター。大衆を動かしたいと考える権威に、便利に使われてしまうのは当然のことなのかもしれない。
もし嵐がどんどん国家を代弁させられるような危ういポジションに祭り上げられてしまったとしても、私はきっと彼らの本心がどこにあるのかを考えるだろう。ファンが望まないようなCDの売り方をされたとき、「こんなやり方するなんて最低」「嫌いになった」とは思わずに、「彼らの本意は別のところにあるはずだ」「嵐はこんな売り方は望まないはず」と信じた人たちのように。
それが妄信だったとしても、私は全くかまわない。その信頼は、これまでに彼らがしてくれたことによって作られている。