「嵐の大野くん」

仕事をさぼった午後。靴の修理に行った。店ではラジオが流れ、男性二人が「アーティストというのは、恥を捨ててやりきるからすばらしい」と語っている。

「だけど嵐の大野くんなんかはさー、どちらかというと我々サイドだから」
「彼は一歩ひいて自分を見てるんだよね」
「正面向いて歌うときなんか、前見ないからね、彼」
「彼が20歳のときに一緒に仕事をしたことあるけど、そのときからそうだった」
「テンション低いのなんの」
(終始、笑)

本人の知らないところでツマミにされる大野智
「やりきる美学」というそれまでの文脈を全部無視して好意的に取り上げられることに恐れ入ると同時に、大野がこれまでに積み重ねてきた努力の日々を思った。たとえどんな理由があろうとも、一日たりとも自分の意思で仕事を休むなんてできないだろう。もし一日でも休んだら、莫大なお金と人的資本がムダになり、週刊誌なんかに「天狗になってる! 怪物くん」ぐらい書かれかねない。しかも彼は10代から働き続けている。こんな好意的なうわさ話を、彼の365日×何年の積み重ねが支えているのだ。
大野だけじゃなくて4人もそうだ。彼らを応援する人も。この世に生きる人は皆、なんらかの自分の仕事をしている。
私は雇われた身であることに甘えて、なにをやっているんだろう。一世一代の決意でさぼったことを、心から反省した。逃げていたって仕方ない。彼らにああだこうだ言う資格なんてこれっぽっちもない。
明日からも愛の裏返しをぶつけ続けるためにも、更生します。横になって待ってろ、大野。